お子さんに英語を習わせたい方へ <第7回>


中学校の英語(2003.9.1)


ナルニアの生徒たちはまだみんな小学生だが、自分の子どもが今年中学生になったので中学で習う英語、いわゆる「中学英語」というものを意識することがある。
教科書をぱらぱらとめくっただけでもいろいろと思うことは多い。


今の教科書は昔とちがって全ページカラー印刷だ。プラス1年生の教科書にいたっては、ほとんどのページが吹き出し付きのコミック風レイアウトになっている。(尾中が使っている開隆堂「サンシャイン」の場合なのだが。)教科書といえどもなんだか楽しそうな雰囲気だ。初めて英語を習う1年生も取っつきやすいだろう。

内容はというと、新指導要領に沿って、というか、時代の要請を受けて、というべきか、中学英語そのものがコミュニケーション能力の養成を大きな目標にしているから、それが達成されやすいような構成になっている。聞き取ったり、言ってみたり、の小さな練習がセクション毎に入っているので、もしこのとおりにやっていけたらずいぶん基礎力がついていくだろうな、と思ってしまう。全体的にはちょっと至れり尽くせり、の感がしないでもない。本当に時代とともに教科書は変わっていく。つくづくそう思う。


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小学生のうちは英語は楽しい習い事のひとつだ。少なくともナルニアの子どもたちにとってはそうだと思う。中学校に入ると英語は「教科」という別の顔をもつようになる。何といっても「試験」があり、成績が決まる。

その定期試験の問題(子どもがもってきたやつだが)に目を通して見る。文法などの問題に混じり、カナダの歴史を問う問題、アメリカの町についての問題など文化に関する問題が目をひく。英語に限らずその言葉の背景となっているものをいろんな角度から知っていくということは大切なことだ。学習に広がりが出てくる。こういう題材が実際の授業の中でどういう風に指導されたのだろう。興味がある。


ところで、英語の試験には必ず発音や音調に関する問題がある。私はいつも不思議に思うのだが、どうして発音などの試験をペーパーテストでするのだろう。beautiful ときれいに発音できて、ALT(外国人指導助手)に"Perfect!" とほめてもらった生徒が筆記試験ではbeautifulのeauにアクセントがあるのだということが認識できずに×になったりする。こういうことが1年生の場合は実に多い。

私もその昔中学生に英語を教えていた頃は、発音ができるのに自分ではどこを強く発音しているのか分かっていない1年生に向かって「いい?beauのところを強く言ってみるよ。beau-ti-ful。今度はtiを強く言うからね。beau-ti-ful。さあ、正しいのはどっち?」なんてやっていた。バカバカしい。でもこのバカバカしさはいまだに続いているようだ。

小学生の子どもたちに英語を教えていると、彼らは全身を使って英語に反応しているのがわかる。特にまだ分析能力が発達していない低学年の子どもたちほどそうだ。耳も、口も、目も、それ以外の感覚と器官も総動員して身体の中に英語の音とリズムを丸ごと刷り込んでいく。小学校の低学年から英語を習い始める場合はこういう段階を踏んでから読み書きの練習に入って行ける。

ところが中学校ではまず英語の音に慣れながら、ほぼ同時に言葉のルールを理解し、マスターしていかなければならないようになっている。これは中学英語の宿命だ。それで試験の方も本来なら実技で診ればいいようなものも、筆記で一緒くたに扱われるようになっているのではないか、と私は疑っている。


大体英語というのは音声面もしっかりやろうと思えば、どう見ても実技教科的な要素を免れない。だから英語はそういう教科なのだとはっきり認識し、試験も実技と筆記にきっぱりと分けて行う。そして、筆記に加え、たとえば音楽で歌唱テストや器楽テストなどを行うのと同じように、口頭でのコミュニケーションがどれだけとれるようになってきたか、という点を問うような実技テストを行えばいいのだ。

教科書が変わり、ALTが頻繁に教室を訪れる時代だ。もっともっと授業のやり方は変わっていいはずだ。それとも今の入試制度が変わらない限り、このような中途半端なやり方が続いていくというのだろうか。しかし、現場の教師が「こんなものだろう」と現状に甘んじる限り、子どもたちに本当の力を付けるにはどんな授業をすればいいか、という真剣な想いや試みは生まれてこないと思う。

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